イタコの恐山からも脱原発(お告げ?)


http://www.youtube.com/watch?v=ouu3qTAJn2w
今日も動画で癒されませう。『初音ミク「積乱雲グラフィティ」【PV FULL】』です。こういうのってどうやって作るのかなぁ(^^♪

さて仏教界でもまたまた脱原発に向けての動きがあったようです。だんだん脱原発が普通のことになってきたのでしょう。政治家の皆さん、脱原発を舐めないで置いてね。
今回の動きは恐山院代の南直哉氏です。「なおや」じゃなくて「じきさい」と読むらしいです。
お坊さんは音読みするんですね。東京電力元取締役の南直哉氏(こちらは「なおや」)とお間違えないように(^_^;)

(引用はじめ)
南直哉(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%9B%B4%E5%93%89_(%E7%A6%85%E5%83%A7)
南 直哉(みなみ じきさい、1958年- )は、長野県出身の曹洞宗の禅僧。早稲田大学第一文学部卒業後に大手百貨店で勤務するも、1984年曹洞宗大本山永平寺において出家得度。19年間の修行生活を送り、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代に就く。

(引用ここまで)

イタコで有名な恐山が、本当の名前を円通寺という曹洞宗の寺院だということは知識として知っていました。
南直哉氏は著書も多くある有名な僧侶です。雪どけ水も何冊か持っています。一般に禅僧は本を書くことは珍しいのですが、そういう意味では異端の禅僧です。
著書に『語る禅僧』というのがあるくらいです。異端は自分でも承知の上。良かれ悪しかれ近代的なセンスの持ち主。思想的にはむしろネオリベに近い印象すらあります。
恐山(円通寺)の住職と血縁のようですが、院代という地位がどういう意味なのかは不明。住職に次いで事実上のNo.2ですが、公的な地位ではないのかも…(^_^;)

ま、人物評はともかく、その原発観はなかなか注目に値するものです。

(引用はじめ)
師走の「偏見」(恐山あれこれ日記)
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2011/12/post_ac73.html
 この種のことは、あまり当ブログに書きたくないのですが、あえてひと言。
 福島の原発事故が収束もせず、きちんと原因の検証もされないうちから、原発輸出や再稼動が話題に出ていますが、私はやめた方がよいと思います。
 その最大の理由は、原発の安全担保は不可能だと思うからです。
 いくら安全装置やシステムを「テスト」しようと、そのテスト項目や方法は人間が決めます。しかも、その「テスト」は「客観的」である必要上、数値化できるものに限られるでしょう。ということは、「テスト」を実施する当の人間の「質」は勘定に入らないわけです。
 ところが、とんでもなく危険で、恐ろしく複雑な原発プラントの、安全維持を含む管理・運営をする組織は、人間の集団です。
 この集団が十分に機能するには、安全装置やシステム自体もさることながら、不可欠の前提として、それを運用する組織内において、トップから現場までの意思疎通に障害がなく、さらに組織の内外に対して「正直」でなければならないでしょう。
 このことは、どのような組織にも必要なことでしょうが(オリンパスや大王製紙の例)、原発ほど事故が重大な事態を惹起するものの場合は、最高度に必要な条件だと思います。
 今回、原発に関わる政・官・財・学、さらにはメディアの各組織は、この条件を満たしていないことが明らかになりました。そして、将来も決して満たすことはありません。なぜなら、人間は「正直」のような倫理を持ち得ますが、組織自体が倫理を持つことはないからです。
 だとすれば、個人の役割が相対的に大きい小規模集団であれば、個人の倫理意識が比較的強く反映して、結果的にその組織が倫理的に振舞うこともありえるでしょうが、組織が大きくなれば、それに比例して、倫理的に振舞うことは著しく困難になります。原発ほどの規模になれば、もうそれは不可能でしょう。
 したがって、個々の人物はともかく、およそ組織に関しては、我々は原則「性悪説」をとるべきです。どれほど「厳しいテスト」をしても、何重の安全装置を施しても、原発の安全はけっして担保できません。
 ならば、人の口から出る「安全」など当てにせず、けっしてゼロにならない事故のリスクを評価した上で、誰に対するどの程度の被害なら許容するのかを明確にして、今後のことを進めるべきです。けだし、原発の事故は、もはやその許容限度をこえる厄災です。
 さらにまた、たとえば「事故は1000年に1回です」というような確率論的もの言いも、私に言わせれば、ただの詭弁に過ぎません。事故の実際の確率は、50パーセントです。起きるか、起きないか、それだけです。今日か、明日には起きるかもしれない。それが毎日続くのです。起きれば災難は甚大です。
 それは合理的な考えではない、という人がいるかもしれません。が、合理的な考えが正しいという保証は、まったくありません。「合理性」を保証する条件そのものが、無条件に正しいことはあり得ないからです。
 原発が増えれば、桁外れの大災害の危険は大きくなり、減れば小さくなる。そう考える方が、私はよいと思います。 
 電力が足りないと脅迫されるなら(その根拠は曖昧です)、総使用量を国内の合意をはかって制度的に低減し、足りるようにしたらよいのです(個人の心がけに期待すべきではありません)。そうしてさらに、原発につぎ込んできた税金を、一度、代替エネルギー開発と電力供給体制の再編成に集中的に注ぎ込んでみるべきでしょう。
 以上、「偏見」です。

(引用ここまで)

いささか首をかしげるのは「事故の実際の確率は、50パーセントです。起きるか、起きないか、それだけです」の部分です。幾ら禅僧でもこれは言い過ぎ。
この理屈が正しければ、車に乗るのはもちろん、自転車だってはばかられることになってしまいます。それは正しい認識とは言えません(-_-メ)

興味深いのは、当ブログで以前に紹介した永平寺や全日本仏教会が言及した「核廃棄物(使用済み核燃料)」の問題に全く触れていないこと。
恐山は六ヶ所村に近いはずなのにどうしたことか。意図を疑えば疑えます。まあ、ここではあまり深入りしないようにしましょう(-_-メ)

評価すべき注目点は、電力不足の解決策を「節電」に求めることは永平寺や全日本仏教会と同じでも、「個人の心がけに期待すべきではありません」としていること。
ここは南氏の指摘が正しいと思います。この点については永平寺・仏教会は南氏にならって欲しい(^^♪
「人間は『正直』のような倫理を持ち得ますが、組織自体が倫理を持つことはない」というのは深い人間洞察です。
マスで倫理感を発揮させることは難しいという意味でしょう。こういうところが禅僧らしいですね。

多様な意見が仏教界内部から出されるのは、仏教界にとって「脱原発」が当然の概念として共有されつつあるのだと思います。
実は雪どけ水の手元にも福島県の僧侶が発行した脱原発を訴える機関誌みたいなものが届きました。仏教界の危機感は外部で見るよりかなり強い様子です。
仏教って共同体(サンガ)の宗教ですからね。共同体を壊されることへの恐怖・抵抗感は自己の存在意義のかかった問題だと見なされているのではないでしょうか。
この問題については今後もっと掘り下げて行こうかと思います(^^♪

師走、ワシ(シワスワシ)

ちなみにイタコって寺院に無断らしい。(事実上の黙認)
お粗末さまでした(^o^)
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テーマ : 「原発」は本当に必要なのか - ジャンル : 政治・経済

コメント

扶桑の島の興廃を決する

いま国家の一大事は「地位協定破棄と石棺化」である。

福一は核の最終処分場には出来ない。
石棺化するから。
チェルノブイリやJCOと同じ処理である。
石棺化してしまえばその場所へは長期にわたってアクセス不能になるから最終処分場化の工事もできないでしょ。
石棺化と地下ダム隔壁建設。それ以上のことは現代科学技術には当面達成出来ない不可能事なので計画することさえ無意味。

現段階では、原発はすべて国策として山中に地下原発として作り直して発電を行い、ここ30~40年間無料で基礎電源として供給するようエネルギー政策のコペルニクス的大転換を行うしかない。
今までに日本が貯め込んだ核物質を安全に処理するコストを考えると、脱原発や廃原発を実行するよりそうするほうがはるかに経済的であるから。

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